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曹洞宗
眼目山 立山寺(りゅうせんじ)

〒930-0422
富山県中新川郡上市町眼目15
TEL:076-472-0699
FAX:076-472-2507
眼目山護国殿立山寺略縁起
当山は建徳元年(1370年)に曹洞宗大本山總持寺第二祖峨山紹碩禅師の創設による屈指の寺である。

禅師は肥前の出身。美濃の今須に妙応寺を建て、摂津に護国寺を建て、ついで越中に遊化し立山に詣で、その風景を愛し紫雲を見ながら座禅をしていると、そこに禅師の名僧ほまれ高きを慕い、樵(きこり)の姿となって立山権現が現れ立山山麓の小丘(今の櫛形山9を指して「かの地は法要の所、到り見たまえ」と禅師を懇請した。立山権現は禅師と石上に対坐すること7日間、禅要戒法を聞いて、帰依し寺院の建立を約束した。
その夜、大豪雨となり上市川に数千の大木が流れつき、翌日より18名の大工(伽藍守護の18神将)が集まってきて、七堂伽藍の精舎が落成し眼目山立山寺と号した。立山や立山信仰との関係が深い。

よって、全国でもめずらしい、開創は山神と竜神の神霊による開基の寺であり、立山権現と北海大龍女を開基としている。

その後、堀江城主の土肥氏の庇護を受け、発展したが、上杉氏の越中進攻に際して伽藍を焼失。天正年間末に復興。

禅師は北陸一円に法徳を教示したが、弟子にも高徳の僧が多く、県下をはじめ新潟、山形、福島、秋田、岐阜県などに寺院を創建した。
眼目(さっか)と立山寺の謂われ
眼目村は上市川扇状地の扇頂部平野および段丘上に位置し、咲花とも察花とも記された。慶長10年(1605)3代藩主前田利常が巡視した際、眼目山立山寺の由緒を聞き、察花の字を「眼目」にしてサッカと読むようにしたといわれる。
立山寺の開山
本寺は正しくは眼目山護国殿立山寺と称し、新西国33ヶ所、6番目の寺で、開山は建徳元年(1370年)曹洞宗大本山總持寺二代峨山紹碩禅師の高弟大徹宗令禅師による開山の寺。七堂伽藍の整った立派な寺であったが、永禄年間(1558〜1569年)上杉謙信が加越能攻の兵火に類燃し開山堂のみ残った。天正年間(1573〜1590年)、佐々成政が富山城築城のときに神通川の神を鎮めるため立山寺に祈祷を命じ、察花(眼目)村・極楽寺村の土地の中に寺領を設定し、立山寺の山の字から一画をとり、川の字にして立川寺と称せしめたといわれ、明治32年(1899年)三十四世長谷川天頴は立川寺の寺号を立山寺と改称した。
山灯・龍灯の伝説
開山は立山権現の示現によるとされ、山神・龍神が大徹禅師の済度を受け、師の没後は立山神と龍神が開山の墓所に灯明をあげたといわれ、毎年7月31日の夜には、眼目山の庭の松の梢に立山の絶頂より飛来した山灯を海中より飛来した龍灯ともに留る。是を山灯龍灯といわれ、世に龍灯として海中より日の出るのは多けれども山灯・龍灯が一度に松の梢に留るのは希有の事であると言い伝えられる。
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